よっしーのこころの病気とは?

社会不安障害・適応障害の経緯

ここではこれまでの私の経験を書いていこうと思います。
学生時代のアルバイトから、4社でどのような経緯を経て発症したのか、
少し紹介します。

いま思えば…学生時代に…

今よく考えると、私の社会不安障害は学生時代のアルバイト時代から始まっていたような気がします。
私のアルバイトは近所の中華料理屋でホールの仕事をしていました。
・お客様が入店しても「いらっしゃいませ」が言えない…声が出ない…。
・声を出して注文をキッチンへ通すのですが、その言葉が出ない…。
緊張していたかどうかは別として、店長など自分より立場が上の人がいると自分が出せなくなっていました。

しかし私は生徒会に入っており、委員長でもあり、部長もやっていました。
全校生徒1,000人の前で英語スピーチしても声が出ないなどということもなく、授業での音読や発表も緊張はするものの、アルバイトのときのような症状に悩まされることはありませんでした。

中華料理屋のアルバイトの他に、インターネット勧誘などの派遣もやっていましたが、そこで症状が出ることもありませんでした。

新卒で入社した会社

できごと

私が入社した会社は、体育会系の人たちの集まりでシフト勤務でした。
「仕事はうまくできるだろうか」
「知識がないのに、指示をしないといけない立場で、嫌われないだろうか」
「航空業界で横文字ばかりで、お客様から電話がかかってきても何を言っているのか分からない」
「他空港から電話があっても、理解できない」

こんな不安から、みんながいると挨拶ができなくなっていました
遅番勤務なら必ず早番勤務がオフィスにいますよね。そこに入っていくのが難しいのです。
特に一人で入っていくときは緊張してしまい、事務所の扉の前で誰かが来るのを待っていたほどです。

悩まされた症状は以下の通りです。
・緊張して挨拶ができない。
・電話が取れない(第一声が出ない)。
・電話を取ったものの取り次ぎができない。
 (なぜか「い」「し」「ひ」から始まる名前の人が呼べない)
・無線で話せない(みんなに聞かれていると思うと緊張する)。

体育会系ですので、少しミスがあると「500枚入りA4コピー用紙が10冊入った箱」が飛んできます。怒鳴るのも当たり前。といいながら同僚にも恵まれていましたが、実家に帰りたかったので結局退職しました。

2社目

できごと

次は別の空港で、また同じような仕事にしました。
まだ事業が確立しておらず、社長や人事部などと同じ部屋で仕事をしていました。
地元とはかけ離れた場所での仕事。
もちろん方言も違います。地元の人が90%を超えるこの会社で結局また体調を崩すことになります。当時体調を崩した一番の理由は、やはり「孤立」「緊張」でしょうか。

・上司1名と私1名で新規業務立ち上げのため、他の人と関わることがない。
・自分たちの業務を分かってもらえない。挙句の果てに当時絶大的な権力を持つ部長から
 「無駄な仕事」と言われる。→他の空港を知らない新人はそれを信じ私を無視する。
 その業務を経験していない中途採用の人もそれを信じ私を無視する。
・契約がなかなか締結されず、仕事が前に進まない。
・社長からの無言の圧力。
・有給休暇を取ったところ、それが気に入らなかったらしく、親会社から出向していた
 総務部の担当者がブログに私の悪口を書いているのを発見。

設立当時のメンバー同士の結束が強く、よそ者の私はのけ者でした。
私の上司もこの仕事について詳しくなく、いわば親会社からの出向。
何度説明しても居眠りをされたり、理解されない状態が続きます。

ついに体に症状が出始めました。
電話に出られないなどの症状はありましたが、この時はじんましん。
腕や足にじんましんが出て、近所の病院へ駆け込み、血液検査を受けることにしました。

祖父の死

そんな中での祖父の死。これが決定的になったと思います。
胆管ガン。見付かったときには手遅れでした。
会社のトイレでネクタイを結び自殺しようとしました。
「祖父のところへ行きたい!」そう思っていました。
ネクタイが外れて失敗。「生きろ」と祖父から言われている気がしました。

毎日祖父が夢に出てきます。何も話しません。夢の中でも亡くなっているのは分かっているのですが、なぜかいつもいる畑で農作業をしている姿が出てきます。
「じいちゃん死んだのに何してるんやろ?」
何とも不思議な感覚です。

心療内科の扉をたたく

血液検査の結果が出たため、病院へ。
結果は異常なし。ストレスではないかとのことで、心療内科を受診するよう勧められました。
この時はやはり偏見があります。「ヘンな人が行くところ」「危ない人がいるところ」。

しかし、この状態でそんなことは言ってられません。見知らぬ土地なのでインターネットで心療内科を調べ予約の電話をします。その返事は…

「新規は3週間後なら予約を受け付けられます。」

その日に診察が受けられると思っていた私は、目の前が真っ暗になり、過呼吸になりました。
その後のことはよく覚えていません。机の上には予約日と時間を書いたメモ。
どうやら予約をしたようです。

それから3週間耐えました。何度も死にたい気持ちになりましたが耐えました。
会社でどんなことがあろうと、祖父がいてくれる。たぶん近くにいる。見ててくれる。

いよいよ診察日です。どんなところか分からず不安でいっぱいです。
ガラガラと扉を開けました。「予約したよっしーです。お願いします。」
周りを見渡すと普通の人しかいない、いや、語弊があるかもしれませんが私が描いていた心療内科へのイメージは一瞬で消えました。どこにでもいる人たちが待合室にいる、この人たちは病気なのだろうか。

1時間半ほど待ち、診察室へ。
うまく話せないので、あらかじめ紙に症状等を書いて先生に渡しました。
45分くらいでしょうか、ゆっくり話を聞いてくれた先生。クマさんのような優しい先生です。
何種類か薬を処方され帰宅しました。

「まだなんとも言えないけど『社会不安障害』に近いですね」とのことでした。

その後…

まだ会社の同僚になじめていなかったこの頃、症状は変わらずでした。
薬を減らしたり、別の薬を増やしたり、どの薬が合うのか、どれなら落ち着くのかということでいろいろな薬を処方されました。

今まで処方された薬は…(思いつく限りですが…)
・ルボックス
・パキシル
・デパス
・ジェイゾロフト
・アナフラニール
・リーゼ
・ワイパックス
・レキソタン
・メイラックス
・セルシン
・エバミール
・サイレース などが処方されていました。

結局どの薬を服用しても、ネットに書かれているような「これだ!」という感覚はありませんでした。いろいろ試しているうちに、部長も異動となり、社長も変わり、会社での業務量も変わり、私の業務に対する理解を得られるようになったことで、症状が和らいでいきました。
ただし緊張のため電話が取れない、無線で話せないという症状は続きます。

コーヒーを飲みながら…一回うなずいて…指を鳴らして…などきっかけを作って第一声を発声するように努力していきました。そんな中、私が一番苦手だった1つ年上の同僚と仕事の考え方、やり方が似ていることが分かり、すぐにお互いが打ち解けていきました。仕事の効率もすごくいい、手を抜けるところは抜く、そんな同僚です。
ただし私は体育会系ではなく、その同僚はバリバリの体育会系。私は自ら壁を作ってしまっていたのです。学生時代であれば、関わらないであろうタイプです。そんなとき…

「お前、本当にかゆいところに手が届くよな。俺お前となら楽しく仕事できる。」

もうこの言葉がどれだけうれしかったでしょうか。
この同僚のみんなへの影響力が大きく、その同僚と仕事をしていくことによって、みんなと打ち解けられるようになっていきました。

上司との揉め事

入社時との上司が異動となり、別の上司が出向でやってきました。
仕事ができるできないは関係なく、人間性に問題がありました。
仕事中に消える、香水がきつい、いない人の悪口を言う。
決定的なのは、契約を結んでいる会社との情報をすべて親会社に情報漏洩していたことです。
私は許せませんでした。仕事はお互いの信頼関係があって成り立つものなのに。

こんなことをしているうちに、契約を結んでいる会社からスカウトの声がかかりました。
めでたく採用となり、3社目に進むことになります。

3社目

できごと

この会社では主にお客様のクレーム対応、飛行機を飛ばすにあたっての総合的な調整などを行っていました。やはりクレームに関しては怒鳴ってくるお客様も多かったですが、2社目のように病んでしまうことはありませんでした。
しかしながら、アナウンスをかけるときは緊張してしまい、第一声が出なくなってしまうことも多々ありました。このときは心療内科へ行くことはありませんでした。

外資系の会社でもあり楽しかったのですが、給料の低さを理由に4社目に行くことにします。

4社目

引っ越しを伴う転職です。

できごと

ついに4社目の経験となりました。
1社目の会社の上司からの紹介で入社します。
信頼していた上司からの紹介だったので「何があってもがんばろう!」「一日でも早く仕事を覚えよう!」「わざわざ引っ越ししてまで来たんだから気合いを入れよう!」
そんなことで自分を追い込んでいたのかもしれません。

書類選考も合格、社長面接も通過し、ついに採用が決まりました。
給料面、残業時間数などの確認があり、問題がなかったので行くことにします。
同時提示された残業時間数は多くても月に10時間程度。これなら全く問題ありません。

緊張と不安を抱えながらも初日出社しました。

まさかこの会社で体調を崩すことになるとは…。

原因

ここでの体調不良の原因は「過労」「人間関係」です。
とある会社へ出向して、その会社の業務を行うというものでした。

過労について

事務所は合計10名。外国人上司2名、日本人6名、私の会社からの出向者が私を含め2名。
私たち出向者が決められた勤務時間は午前8時から午後5時まで。
ただ午前6時台に到着するフライトを管理しようと思うと、午前8時はありえません。
結局フライトの到着後ではありますが、午前6時45分くらいに出社していました。

やはり海外から到着の航空機。たくさんイレギュラーがあります。他空港のフライトも管理していました。
それに加え出発便の作業が順調に行っているか等の管理、データ入力がたまっていきます。

一息つくともう午後2時ごろです。
私たち出向者以外は帰っていきます。休憩を取り、たまっているデータの管理、実績入力を行っていくと午後5時ごろになっていました。もちろんそこでは終わりません。

次に翌日便のプランの作成です。これがまた大変で…結局作業を別の会社に依頼するのですが、この作業の打ち合わせが午後9時までに行うことになっています。遅くなったからと言ってクレームが来るわけではありませんが、その会社も夜勤担当で作業を開始することになっています。
仮に午後9時に打ち合わせが終わって、作業状況を確認するのが午後10時半ごろ。
結局問題が発生したりなどで退社は午後11時ごろ。遅いときには日にちが変わっています。

私たちは帰宅しても、夜中に作業をしているので、このプランではできないなどの電話が午前3時や午前5時など時間関係なく電話が入ってきます。

申請できた残業は月50時間まで。
実際の残業はこの月で100時間は軽く超えていました。

人間関係について

事務所の人数は上記の通りですが、いわゆる「お局」と言われる人が、下請け会社の人のミスに対して本人を呼び出して、すごい勢いで怒鳴っています。
これを見てしまった私は2社目の社長の怒り方と似ていて、動悸がするようになりました。

入社したばかりの私は空気のような存在。外国人上司に挨拶しても、他の人に挨拶しても目も合わさず無視。これは辛かったです。
私の事務所には自由に使ってもいい紙コップがありました。3日に1個くらい使っていたんですね。するとこの「お局」が「あの人来てから紙コップの減りがすごく早いんだけど。」と嫌味を言っています。私はすぐに自分のことだと気付きます。

また出向しているもう一人は50歳くらいのおじさんでした。
今まで「効率重視」で仕事をしてきた私とは正反対です。「ホチキスの留め方」「ファイルを置く順番」「裏紙の積極的使用」などキリがありません。日本では裏紙を使うことが「エコ」だと思われていることも多いですが、実は一度目に印刷したときの粉などがついていて、結果的に複合機を早く傷めることになるそうです。
おまけに話が長く、話し出したら止まりません。仕事がたまっている私は作業しながら聞いていました。そうすると…「手を止めて聞きなさい」と。「〇〇温泉がいい」「この国は楽しい」など正直雑談レベルです。

そうかと思うと突然…
「あなたの仕事のポリシーは?」
「あなたならどうする?その理由は?」
「こう言われたらどう答えるの?」
「前職だと思って私がこういうクレームを出したらどのように切り返して納得させるの?」
という質問も多く、次第に話さなくなっていきます。

入社して3週間後…

こんなに短い期間ですが、寝ても仕事の夢、起きても仕事、電車の中でも仕事、上司との会話を思い出すなど…めまいがして階段から落ちそうになったり、駅のホームから線路に吸い込まれそうな感覚に陥ります。
私の利用していた駅は各駅停車のみ。直線のため特急や急行がスピードを上げて通過していきます。実際にその駅で何件も人身事故が発生している駅でした。

思い出すだけで辛いですが、動悸もひどく、無視されたことにより緊張し、あいさつができない、仕事は好きだけどこれ以上続けられない、始発に乗り、終電で帰る。こんな状態がいつまで続くのだろうか…。こんなことを考えていました。

会社のドアの前に行くと激しい動悸、吐き気、めまい、腹痛が襲うようになります。

ついに…

3連休の後、朝始発に乗るために家を出たところ、動けなくなってしまいます。
目の前が真っ白になり、足が前に出ない。これまで病気で仕事を休んだことがない私ですが、休むことに決めました。その日は動けなかったので病院にも行かず家で休んでいました。

会社の人から病院に行くよう言われ近所の内科を受診します。
血圧が最高190で最低は130、血液検査、食事もとれなかったため点滴を受けます。
2日後血液検査の結果を聞きますが、やはり異常なしで心因性高血圧ではないかとのこと。

結局再び心療内科の扉をたたくことになります。

とにかく休養したい、ちゃんとした診断が欲しい、こんな思いから大きな病院を選びます。

再び心療内科の扉をたたく…しかし…

上にも書いた通りですが、車で25分くらいかかる大きな心療内科・精神科を選びました。
予約の電話をすると即日診察が受けられるとのこと。

藁にもすがる思いで受診しました。

大きい精神科だったので、受付の場所もそれぞれ異なります。
分からないので受付担当に確認します。「予約したよっしーです。ここでいいですか?」

「いや、あっち!!あっちで聞いて!!」

この態度で私の体調はその場で悪化します。いよいよ診察。
先生は若く終始眠そうな人。目も合わせてきません。私はこれまでの状況を話しているうちに泣いてしまいました。
それくらい辛かったんです。しかし先生の目は冷たいものでした。
こういうときは人の気持ちを感じやすくなっているので、少しの表情の変化でも簡単に気付いてしまうことがあります。

私は「先生、休職したいです。」と伝えました。先生からの答えは…
「私だってがんばっています。薬を処方するので頑張って仕事に行ってください。」でした。
さらに私は「休職は無理ですか?」と再び確認しました。すると先生は…
「あのね、休職の診断書は初診では書きませんよ。症状が分からないでしょ。聞く限りは
 『適応障害』だね。」
「自殺未遂してれば別ですが…笑。自殺未遂すれば書いてあげます。頑張って。」

もちろん先生が言っていることは分かります。初診でいきなり診断書を書いてほしい、休職したいなんて、初めて診察した患者から言われても困るでしょう。
診断書は欲しかったのですが、先生のその意見に驚いてしまい別の病院を受診します。

近所の小さな心療内科へ…

結局別の日に近所にある小さな心療内科へ行くことにします。
こちらも電話をすると、午後には診察可能とのことでした。

これまでの経緯を紙に書いて渡しました。
この状態なので字が読めないくらい汚い文字です。

2~3分で先生からあの言葉が出てきます。
3ヶ月休職しましょう。今のよっしーさんは危険です。無理に話さなくていいですよ。

私は「〇〇病院でこの薬をもらいました。」と言います。
先生は「分かりました。できれば薬に頼らずに一緒に少しでも良くなるようにしましょう!

結局ここの病院へ行くことに決め、今でも通院しています。

休職へ…

休職期間についてはこちら(「適応障害」での休職期間はどんなことをした?)
まとめましたので、読んでいただけると嬉しいです。

退職

長くなりましたが、結局2017年7月31日を持って「自然退職」で退職となりました。
期間中「傷病手当金」を受給していましたので、記事が完成したらリンクを貼ります。

復職に向けて頑張ってきましたが、現在は再就職に向けて努力していこうと思っています。

このページを訪問された方は、何らかのこころの病気で苦しんでおられる方かもしれません。

無理せず、焦らず、ゆっくりと、こころの病気と向き合っていきましょう。

Photo by cosmospaceternal_8734 / Pixabay

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コメント

  1. わい より:

    よっしーさん
    こんにちは!コメントを読まれているかわかりませんが、、航空関係で働き始めた社会人一年目です。よっしーさんのブログ、楽しく読ませていただいてます。
    私も心の病気というか、、うつで学生時代苦労したことがあるので、よっしーさんのブログをみて、私も働きながら自身と向き合っていこうと思いました。
    まとまりのない文章でごめんなさい。今日も素敵な一日になりますように^^

    • yossy59 より:

      わいさん
      こんにちは。コメント拝読いたしました。ありがとうございます。
      学生時代にそんな苦労をされたんですね。そして、同じ航空関係で働いていらっしゃるとのことで応援してます!!
      こちらこそ読んでいただきありがとうございました(^^)/